新約聖書 ルカの福音書1:48
「主はこの卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これからの後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。」
クリスマスおめでとうございます。
この季節は、救い主イエスを信じる人にとっても、そうではない人にとっても、愛や幸せを考えさせられるときです。その始まりを担ったのが、思春期の少女であったという聖書の記録は、意味深いものです。なにしろ、思春期の女子ほど、幸せに対して疑り深い時代はないでしょうから。
自分の心の浮き沈みが毎日のようにあって、幸福感があったとしても他の人の一言であっけなく不機嫌や不安と入れ替わってしまう日々。そして、この人の言うことを本当に信用してよいのか、警戒しなくてよいのか、この人の笑顔は演技なのではないか…そう思い始めたら、安心できる幸せなんて果たしてあるのだろうかと心が引きこもってしまう。そんな経験を、この少女マリヤもしてきたはずです。
しかし彼女は、自分の今経験している幸福度は、今後どのような時代が訪れようとも、どのような人が現れようとも、今の自分を幸せだと思わないはずがないほどの幸せだ!と言うのです。この少女にとって、幸せとは何だったのでしょうか。
彼女はこの時、周りの人たちを見ていませんでした。自分の能力がほめられたとか、自分が何かを成し遂げたとか、自分のしたことのうちの何かが、彼女の幸福感に関係しているわけでもありませんでした。これから神の子を産むということについても、天使のお告げは理解したものの、それがどのような未来を意味するのかは、分からないままだったことでしょう。彼女が唯一理解できていたのは、「神が私に注目してくださっている」ということでした。
神は私に、神の大切なものをお預けくださった。
神は私に、大事な仕事を任せてくださった。
神は私を、神の業を担う者として、選んでくださった。
他者によってではなく、神によって確かにされる祝福は、永遠の響きを持つものです。救い主の誕生は、疑り深いあなたの中にも、確信を持てる幸福をもたらすものに違いありません。
【祈り】
父なる神様。このクリスマスを、表面的にではなく、心で確かに祝福を受け取れるときとしてください。私たちの貧しい心に、救い主がいらしてくださり、私たちがお互いに壊してきたものを、平和のうちに回復してください。救い主イエスの御名前によって祈ります。アーメン。