旧約聖書 詩篇 39篇 7節
「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。
私の望み、それはあなたです。」
「ここにこの人がいてくれれば、大丈夫!」
そんなふうに自分を安心させてくれる存在が、私たちにはいるでしょうか。この人がそばにいれば、どんな人がやってきても、だれが何を言い出しても、ちゃんと治めてくれる。そう思えるなら、これから起こることを心配することなく、毎回多少緊張はするものの、その人がどのように事件を解決してくれるのかを、驚きと称賛とともに見守るだけでよいのです。そして私たちは、その人の側にいる自分になっていてよかったと胸をなでおろし、感謝をし、その人と共にあることを誇りに思うことでしょう。
上記の聖書のことばが語っているのは、そういうことです。
希望とは何でしょうか。多くの場合、それは自分の願いがかなえられる未来、成功する可能性があることだと私たちは思います。しかし、未来の出来事や結果の見通しがまったくつかなくても、むしろ絶望的な材料しかないような状況においても、「希望」と名付けることのできるものがある、と聖書は言うのです。「それは、神であるあなたです」と。
私たちと共にいてくださる神は、病を知っています。病んでいる心と体の不安を、この方はそのまま一緒に担ってくださいます。
この神は、貧しさと屈辱を知っています。にぎやかな人々の中での寂しさ、自分だけがこんな目に合っているのはなぜなのか、と自分を責める気持ち。そんな私たちの心の隙間も闇も、この神は自分のものとして共に苦しんで下さる方です。
そしてこの神は、「わたしは存在していてよいのだろうか」という問いに対して、「わたしが代わりに死んだのだから、あなたは生きよ」と、いのちを吹き込んでくださる方です。
この神は、死を知っています。人間をその恐怖から、そして死そのものから救い出すために、復活する未来を、自分のからだによって証明してくださった方です。
「わたしの中にこの方がいてくれさえすれば」と、私たちが思うことができるのは、こういう神なのではないでしょうか。
【祈り】
父なる神様。希望とは何なのかが今の私にはわかりません。身の回りに起こることは、私を暗い方に引きずっていきます。しかし主よ、あなたを待ち望みます。私の中に、消えることのない希望の灯を授けてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。