新約聖書 マタイの福音書 20章 25~26節
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。
『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』」
誰もが他者に仕える生き方をするわけではありません。イエス自身がこの箇所で「偉い人たち」は権力をふるうのがふつうだ、と述べています。多くの人たちは、自分の力に従ってくれる人がほしくて偉くなりたいと願います。そして与えられた立場を自分の影響力を広げるために使います。そんな世の中で、全く逆の生き方をするようにとイエスが語りかけたのは、彼が呼び寄せた時に、近寄ってきてくれた弟子たちに対してでした。わずか12人。それもこの少人数の中でも競い合うことをやめない、くせのある男たちでした。
イエスが弟子として選ばれたのは、見どころのある優秀な人たちではありませんでした。育ちが良くて性格がよくて物分かりのよいという感じの人は、12弟子の中にはいません。むしろ、単純で、気が短くて、過去に問題を持っていて、人と自分を比べずにはおれない、もともと自分に自信のない人たちです。しかし、この少人数の変わり者の男たちは、イエスに心を捕らえられた者たちでした。仲間との関係がこじれて不満があったりしても、イエスのことばにはよい心で答えたいと願っていたようです。
そんな弟子たちに、いや、そんな弟子たちだからこそ、イエスは彼らの目をしっかり見据えながら、本当のことを打ち明けます。
「私がこの世に来たのは、人に仕えるためなのだよ。それも、人々の代わりに死んで、彼らに私のいのちを与えるためなのだ。」
イエスは自分がやがて引き受けていく死に方を通して、自らの生き方を戒めるようにと、弟子たちに語るのです。
「私は人を支配しない。むしろ人に仕えて、人のために死ぬ。あなたたちも同じようにしなさい。」
世界中で支配と力を得るための闘争が色濃くなっています。人を支配せず、仕える道は、この世界からは生まれてきません。しかし、荒れた心を持つ私たちも、イエスに呼び寄せられたとき、イエスのことばには素直になりたいと思うとき、まったく逆の道を選び始めることができるのです。
【祈り】
天の神様。この世の為政者たちを憐れみ、人に仕える心を学ばせてください。私たちもまた、この時代の暴力から逃れて、逆の道を選ぶ心を持てるように、イエス様を模範にできるように導いてください。
イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。