新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章 10節
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
忙しい現代において、私たちはいつも先回りをして生きていこうとしています。誰よりも先に思いついて、誰よりも先に計画を立てて、実行して、結果を出して、始めから先を見通せていたかのように立ち回ることができればと思っています。そんな私たちにとって、先が見えない今のような状況は、自分の無力さにいつもよりも思い至りやすいのではないでしょうか。自分の限界や自分の心の底の浅さにがっかりするとき、「私たちではなく、神が」という順番が助けになります。私たちに必要なものを、私たちが必要とする前に、神は先に用意してくださる方です。特に、愛に関して。
人を愛する思いは、主体的に自分の心から湧いてくるものだと私たちは信じています。だれかに優しくすることは、要求されたり、強制されてもできません。心からその人のために、という思いがなければ、それは愛の行為とはなりません。私たちは大切な人を偽りなく愛することができる自分でありたいと願います。だからこそ、自分に人を愛する心がないと気付くとき、私たちはへこむのです。
聖書が語る順序に心を留めましょう。愛とは、神が始めるものなのです。神の始めた愛だけがいつまでも残るのです。そんな神の愛を忘れてしまった人間が、自分で愛を生み出せると勘違いしている姿が、聖書では罪人と呼ばれています。そして、忘れていた愛を受け取れる人間へと私たちを変えるため、イエスは私たちの死を引き受け、代わりにいのちを与えてくださいました。イエスの死は、人に対する愛を、神が自分で始めて自分で完結させたことを証しするものなのです。
ひとりであることが空しくても、やるべきことに気持ちが向かないつらさがあっても、あなたが始められなくても神が始めてくださっている愛があります。あなたはいつもここからやり直せるのです。
【祈り】
天のお父様。心が空っぽになったようなとき、生きる気力がわかないとき、私の中に愛がないままで、あなたに向かって祈ります。私の心に注がれているあなたの愛を、私が十分に受け取って、感謝して歩むことができるように助けてください。
イエス・キリストのお名前によって、心からお祈りします。アーメン。