新約聖書 ヨハネの福音書 19章38節
「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。」
金曜日の午前中に十字架につけられたイエスは、その日の午後には大きな叫び声とともに息を引き取りました。何日間もさらしものにすることを目的とした十字架刑としては、普通はあり得ない、とても早い亡くなり方でした。両脇の強盗たちはまだ生きていましたが、兵たちは彼らのすねを折って、死期を早める処置をしました。ユダヤ人たちはこの処刑をすみやかに過去のものとして、神の祭りを祝いたいと願ったのです。自分たちが殺した方こそが神の子だと知らずに。
死んだイエスのからだは十字架につけられたままでした。そのとき、遺体の埋葬を申し出た者がいました。彼はいわば隠れキリシタンでした。ひそかにイエスの弟子となっていましたが、人々には隠していました。そんなヨセフと同様に、かつてこっそりイエスに会いに来て深い人生の問いを語り合ったニコデモもそこに来て、一緒に埋葬をします。イエスの死の最後のお世話をした人は、3年間寝食を共にした12人の弟子の誰かではありませんでした。
このとき多くの弟子たちは、自分たちの先生が捕まって処刑されていく中、ショックと恐怖で人々を避けて隠れていたのでしょう。絶望と後悔と恐れ。死んだ人がよみがえるなど、この時点では誰も期待していませんでした。そんな中で、イエスへの愛を表現する行為を、人目を恐れずにした2人。それが、今までは人目を恐れて隠れていた弟子たちだったというのです。彼らは、自分たちがイエスのためにできる最後のささやかなことを行動に移しました。普通ではない死に方をしたイエスに、ユダヤ人としての普通の葬儀を行いました。慌ただしい埋葬ではありましたが、それは彼らのイエスに対する愛と尊敬の告白だったのです。
あなたも隠れキリシタンをひそかに自称しているひとりであるかもしれません。でもそんなあなたも、人々を愛しぬいたイエスの姿と、裏切られ殺されたイエスの死とを最後まで見つめるとき、隠していた思いを行動に移そうと考えるようになるのではないかと思います。
【祈り】
愛なる神様。私たちは人目を恐れて、あなたに対する思いがあっても、それを人前で言う勇気がありません。でも、私があなたの愛をもっとわかることができれば、そんな私も変われるかもしれないと思います。十字架にあらわされたあなたの愛を、私に教えてください。
救い主イエス様の御名前によってこのお祈りをおささげします。アーメン。