2015年2月4日(水)高等部朝の礼拝説教
聖書箇所:詩篇54篇1~4節
1「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。
2神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。
3見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。
4まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」
「玉川聖学院に後藤健二さんが遺してくれたもの」
今朝は、後藤健二さんが私たちに遺してくださったものを思い起こし、一緒に心に刻むときとしたいと思います。
第一に、私たちが後藤さんから教えられるのは、「神への信仰」です。
この1~3節は、私たちが後藤さんのために祈ってきた祈りそのままだと思いませんか。私たちは後藤さんのいのちが助けられることを願い、見知らぬ人々、横暴な人々にいのちが狙われる中でも、彼が守られることを祈ってきました。そして続く4節の言葉は、実は後藤さんがとても大切にしていた言葉だそうです。彼は危険と隣り合わせの使命に生きる中で、死を越えて自分を支え、迎え入れてくださる神を求めて、キリストを信じて洗礼を受けたと聞いています。その彼が、いつも持ち歩いていた小さな聖書の、特にこの54篇4節を心に留めていたというのです。
「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」
ここで表現されているのは、神の守りです。神は私を支えてくださるという、神の助けへの信頼を後藤さんは持っていたと言えるでしょう。
でもここで私たちの心には問いが生まれます。「でも神様は彼を守ってくれなかったのではないか?」「私たちの祈りは聞かれなかったではないか?」
皆さん、神様が私たちの祈りを無視されることは決してありません。確かに私たちの祈ってきた願い通りにはなりませんでした。しかし神様は、私たちが後藤さんを心配し慕っていた以上に後藤さんを愛していたし、今も愛しているのです。彼はキリストを信じていました。それは、キリストが死んだ後復活したこと、そしてキリストを信じる者には地上のいのちを越えた永遠のいのちが与えられるということを彼が信じていた、ということなのです。大切な人、親しい人が地上から消えてしまうということは、第三者には完全には共感しえない深い悲しみです。しかし私たちが聖書において信じることができるのは、信仰者は死を越えた後に、今まで信じてきた神様と直接お会いすることができる。もはや死もなく苦しみも叫びもなく、神ご自身が涙をぬぐってくださる。今まで地上で求めてきた愛と平和が完全に混じりけのない形で実現するのはこういう世界だったのかという感動を持って、本物のいのちを生き始める、ということなのです。神様が守ってくださるのは、今の私たちのこのいのち以上の確かさを持つ永遠のいのちです。神は私のいのちを支えてくださった。その事実を今一番実感しているのは、後藤さん自身であるはずです。そのような信仰があったからこそ彼はシリアに向かうことができたのではないのだろうかと私は思います。
一方で、私たちにはこのような問いも生まれるのではないでしょうか。「では、あんなことをするイスラム国をそのままにしておいてよいのか?」「神は彼らを放っておくのか?」
聖書の神は悪を行う者をそのままにはしません。神様は私たちの自己中心的な正義とは違う明快な正義によってすべての人を最終的に裁きます。復讐するのは神の領域です。神が正しく裁きます。ですから私たちは復讐は神に委ねて、私たち自身はそれに手を染めずに、愛と平和を選ぶのです。
このプレートは、2008年に後藤さんが中3の人権平和学習で講義された時に玉川聖学院にプレゼントしてくださったアフリカからのお土産です。書かれてある言葉は、”It is nice to have friends.” 「友だちを持つのはよいこと、友だちになるのはすばらしいこと」と訳せるでしょうか。この言葉に象徴されるように、後藤さんから私たちが学ぶべきことの2つ目は、「平和への意志」です。
これから後、メディアやネットはこの事件を忘れると同時に変質させていくでしょう。心ないコメントや、このことをネタにするような文章や、後藤さんの遺志が平和をつくることであったにもかかわらずむしろ戦争や報復をあおるような言葉が、多数を占めるようになっていくかもしれません。しかしその中で私たちは、憎しみを助長させたり、対立をあおるようなことには、あくまでもNOだ、Niceなのは友だちになることだ、という心を持ちましょう。人と人をつないで、他の国の人と友だちになり、その国の中で友だちをつくり、今隣にいる人と友だちになり直す。そういう生き方を選んでいきたいと思うのです。平和を作るために後藤さんが死んだように、キリストが私たちを救うために死んだように、私たちも今いるところで小さく死んで、平和を作るひとりになりたい。私たちのプライドやこだわり、怒りや憎しみを捨てて、世界に友だちをつくり続けることに生きるのです。
後藤さんを通して玉川聖学院には特別なかたちで平和の種が蒔かれました。皆さんの心がその種を受け取った地面です。皆さんの心がやわらかければ、この種は芽を出して育ち、実を結び、他の世界にも平和の種を蒔いていくことができるようになるでしょう。これからの時代にこのような生き方をしようとすると、きっといろいろな邪魔が入るでしょう。がっかりしたり、くじけたり、途中で投げ出したくなるときもあるかもしれません。しかしそんな中でも、私たち玉川聖学院は、この種をしっかり育てて平和をつくる者たちでありたいと心から願います。皆さんもそう願ってください。お祈りしましょう。
天のお父様。私たちに人生を与え、今この時もいのちを支えてくださっていることを感謝します。どうぞ地上の争いの中にいる私たちを憐れんでください。後藤さん、湯川さん、そしてカサスベ中尉のご家族、そして私たちが名前を知らない多くの理不尽な死を迎える人々とその家族を憐れんで、慰めをお与えください。地上に残されている私に信仰と勇気を与えて、あなたの願われるとおりに平和をつくる使命を果たさせてください。イエス・キリストのお名前を通してお祈りします。アーメン。