今日は、イースターと呼ばれる特別な日です。イエス・キリストが死んで3日後によみがえったということを記念するときです。今日の玉聖hpには「玉聖教会学校 イースター礼拝」という動画がアップされています。この日の礼拝のために、玉聖の先生たちが皆さんのために作成したものです。元気のよい賛美歌を久しぶりに聞く機会にもなりますのでぜひご覧ください。
さて、こちらのページには、先週同様、読み進めることで礼拝をささげるための、少し長めの文章を載せています。神に対して心をささげるという行為には、様々なかたちがあります。今日もそれぞれの場所から、復活したイエスを思う礼拝をささげましょう。個人でささげる礼拝であっても、同じイエスを見上げるという意味で、全世界とつながるものになります。
【黙想】
短い時間、目をつぶって、心を静めます。
いろいろな心配や気になることを、心の中で一旦脇に置き、心を落ち着かせます。
【賛美】
以下の聖書のことばを、ゆっくり意味を考えながら読むことを通して、神を賛美しましょう。
旧約聖書 詩篇16篇 10~11節
まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を
知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
【祈り】
天にいらっしゃる父なる神様。あなたをほめたたえます。
今、病と死に対する恐れが私たちを取り囲んでいます。このような中で、死からよみがえったイエスを礼拝するということは、世の中の空気とはまったく逆のことのように感じます。どうぞこれからのとき、私の心に聖書を通して語り掛けてくださって、私の中のぼんやりとした不安や暗い心に光を与えてください。
全世界で、このイースターにあなたに思いを向けている人々を祝福してくださって、私たちがあなたへの礼拝によって、ひとつとなれるように導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【聖書】
新約聖書 ヨハネの福音書 20章11~16節
しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、へブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
【メッセージ】
あなたは泣きじゃくって周りを困らせたことがありますか。ここに登場するマグダラのマリヤ(イエスの母マリヤとは別人です)は、まさにそのような状態でした。
3日前、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体を香料とともに布で巻いて、横穴式の墓に納める様子を、このマリヤは他の女性の弟子と共にじっと凝視していました。他の男性の弟子たちのほとんどが姿を隠している中、イエスの死を最後まで見届けたのは彼女たちでした。墓が大きな石で封印されたころ、夕闇が迫ってきました。それから丸一昼夜、ユダヤ人たちにとって働いてはいけない安息日が訪れます。「絶対私はここに戻ってきて、イエス様の遺体をきれいにして差し上げるのだ」マリヤはそんな決意を持って墓の場所を記憶し、家に帰ったのでした。
悲しみに暮れた安息日がようやく終わる日曜日の明け方、彼女たちは香料を持って墓に急ぎます。しかし着いたときには、すでに入口の石が動かされていて、中がのぞける状態でした。そして遺体がなくなっていることに気付きます。男性の弟子たちに急いで伝えますが、彼らも驚いて確認しにきたものの、それ以上のことができるわけではありませんでした。弟子たちが立ち去ったあと、マグダラのマリヤは墓の前に残り泣き続けます。
白い衣の御使いが彼女に声を掛けたと聖書には書いてありますが、マリヤが相手を御使いだと思ったのかどうかはわかりません。彼女は「私のイエス様が誰かに取られて、どこに行ったのかわからないの」と答えます。すると、後ろに誰かの気配を感じて、もう一人そこにいることがわかります。それはイエスだったと聖書は言うのですが、マリヤはこのことにも気づきません。「なぜ泣いているのか、誰をさがしているのか」というイエスの問いに、「あなたが取って行ったのなら、私に返して」と訴えるのでした。
このマリヤにとって、イエスは自分のものでした。自分だけのものだというわけではありません。イエスがすべての人を愛しておられる方だということは誰よりも知っていました。しかし彼女は「私の主」とイエスを呼び、自分がイエスの存在なしに生きていくことなどありえないと思っていました。大切な唯一の心のよりどころ、自分の一部分でもある愛する存在を失ったとしたら、それもその遺体の顔を見ることすら許されなかったとしたら、きっと私たちもこのときのマグダラのマリヤのように、だれかれ構わず訴えるのではないかと思います。「あの人がどこに行ったのか、私はどうしたらよいのか、わからない!」
神は、私たちが苦しんでいるときに問いかけます。「なぜ泣くのか。」そしてこの「なぜ」という問いは、私たちの本音を引き出します。死に向き合うとき、私たちは恐れます。死という終わりの向こうを、私たちは知りません。わからないのです。わからないから怖いのです。愛するものを失うことも、自分自身が失われることも。それが、死の事実を前にしたときの私たちの本音ではないでしょうか。この怖さを、人間は乗り越えることができないのです。
イエスはそのようなマリヤの訴えに対して、説明や理屈で答えることをせず、ただ、彼女の名を呼びます。「マリヤ。」その声を聞いて、そして振り向いて、マリヤはそこに生きているイエスがいることに初めて気づくのです。
現代の私たちも同じだと思います。聖書には、死の恐怖を克服するための教えが書かれているわけではありません。聖書が語るのは、神が今も私たち一人一人の名を呼んでいるという事実です。神は私たちを振り向かせ、復活したイエス・キリストに向き合わせようとしています。死を克服するための理屈ではなく、死を克服したキリストの存在を、自分のものにするようにと招いているのです。
イエスが死んで復活して以来、2000年の時を通じて、多くの戦争、疫病、悪政、災厄が繰り返されてきました。その間、神は人間たちの名を呼び続けてきました。そして「わからない」という嘆きの中で、キリストに出会った人々が今日までたくさんいます。彼らにとって死の闇は、キリストを通して、永遠のいのちという明るさに塗り替えられてきました。この昔からの神の呼びかけは、今日のあなたのところまでつながっているのです。
【祈り】
父なる神様。
復活したイエス・キリストを知ることによって、私たちの中の死への恐れを拭い去ってください。私たちが死を思い起こす度に、イエス様のいのちによって、私たちの心を立ち直らせてください。あなたの呼びかけに私が答えて、あなたに従う小さなひとりとなることができますように。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン。
【黙祷】短く、自分の言葉で心の中で祈りをささげて終わりましょう。