しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネの福音書 8章7節)
夏休みも後半になりました。この夏も本校では様々な研修に生徒の皆さんが参加していますが、広島平和研修では今年も参加者全員で早起きして平和記念式典に参加しました。戦後80周年ということもあり、世界中から55000人もの参列者が集まった中での広島市長による平和宣言、子ども代表による平和への誓い、そして石破首相の挨拶など例年以上の熱を感じました。私が最も共感したのは湯崎英彦広島県知事のあいさつでした。核兵器廃絶への道のりが厳しくとも、我々が諦めずに進んでいくべきことを、ノーベル平和賞の受賞時にサーロー節子さんが行ったスピーチから引用し、“諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ。”と鼓舞する姿に大い感銘を受けました。
このあいさつで特に頷かされたのは、 「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました。我が国も、力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示しています。」との部分。確かに、常に冷静に正しい判断がなされていたなら多くの戦争は起こっていなかったかもしれない、でも実際の歴史を見ると残念ながら、我々人類は多くの過ちを繰り返してきたのです。
翻って我が身を考えるのです。平和をつくる存在になれているのか。なぜ争いが起きるのか。あなたは間違っていて、自分は正しい。そういう理屈を作ってしまう自分に気付きます。
今日の聖書の箇所は、結婚生活に厳格なユダヤ人の社会において、不倫の現場で捕まった女性をどのように扱うかを、宗教的、政治的に常に模範的な振る舞いを自認していたグループの人たちが、尋ねた際のイエス・キリストの答えです。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
本来、この女性に石を投げる資格のあるお方=罪のないお方はイエス・キリストお一人だったのです。しかし、イエスご自身は、我が身を恥じて、身を小さくするしかなかったこの女性を皆が立ち去るまで見ることもしませんでした。イエスのこの言葉に、石を投げることのできる人は誰もいなく、年長者から初めて、1人、また1人と立ち去って行きました。そして彼らが全員立ち去った後も、イエスは彼女に赦しを宣言されたのです。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)すべての人々の罪を身代わりに背負い、やがて十字架によって死なれる方にしかできない宣言でした。
高校野球チームに対する騒動だけでなく、私たちの身近なところでも、SNS全盛の現代では、あらゆる人に、あらゆる形の石を投げつけることが頻繁に行われています。しかし、自分自身も赦されるべき罪人であることを忘れぬよう、そして赦された罪人にすぎない私たちを通して平和を願っておられるイエス=神がおられることを胸に刻みたいと願います。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5章9節)
お祈り 神様、夏休みも後半に入っています。引き続き、皆が健康で、そして安全にこの夏を過ごせるようにお守りください。私たち自身が自らの弱さや欠けに気付き、あなたに赦されていることに感謝できますように。私たちを、私たちの頭・口・手を、平和をつくりだすものとしてしてお用い下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。 (中高等部長 櫛田真実)