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  • 2020.03.15

3/15のメッセージ「受難節のメッセージ3」

先週の水曜日の朝の礼拝のメッセージです。キリストが十字架で死なれたことの意味を改めて思い起こすときとしましょう

2020年3月4日(水)朝の礼拝(原田純子先生)
聖書箇所;ルカの福音書22章32節

ルカの福音書22章32節
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

今週はペテロのイエスに対する裏切りという重いテーマが与えられています。ペテロの3度の否認は彼の人生の中で、最も「取り返しのつかないことをしてしまった」といえる、最大の裏切りであり、彼の一生の傷となった出来事でしょう。ペテロは、一番最初にイエスの弟子となり、最初の信仰告白に導かれた弟子です。ペテロも、弟子たちの中では自分がもっともイエス様に近いという自負があったと思います。とにかくイエス様のことが大好きで、他の誰もがイエス様を見捨てても、自分だけはイエス様を見捨てない、命を懸けてもお守りするという熱い思いを持っていました。

それにもかかわらず、ペテロはイエス様が十字架につけられる前夜、3度、「イエスを知らない」と否定してしまうのです。ここを読むと、「おそらく自分も同じように否定したに違いない」と私も含め、多くの人がペテロに共感すると思います。けれども、ペテロはそのような周りの共感によって自分の後悔がなくなることも、軽くなることもなかったことでしょう。ペテロのこの裏切りは、イエス様が十字架刑に向かわれる前の最後のやりとりとなってしまいました。そのあと、イエス様は、もっとも残酷な仕方で殺されます。その姿を前に、ペテロはどれほど自分のことを責めたでしょうか。自分がイエス様を殺したのだという絶望に自分を追い込んだことでしょう。

そんなペテロに、イエス様の言葉だけが唯一の救いとなったと思います。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

自分の力では正しくあろうと願っても、そう生きることのできなかったペテロにとって、この言葉がどんなに大きな癒しとなり、励ましとなったでしょうか。「自分は裏切り者だけれども、それでもイエス様の弟子でいて良いのだ。信仰を持ち続けていいのだ。そして、こんな自分でも誰かの役に立つことができるのだ」と。

みなさんは、遠藤周作の『沈黙』という小説を読んだことはありますか。17世紀、キリスト教の禁教令が出されたとき、キリスト者とそうでない人を区別するために『踏み絵』が用いられました。『沈黙』では、カトリック神父であったロドリゴが、自分の尊敬する恩師が日本でキリスト教を棄てたという知らせを耳にし、それを確かめるために、日本に行くところから始まります。「まさか、あの熱心な恩師がどんなに迫害を受けても、キリスト教を棄てるはずがない」と、ロドリゴは確信していました。しかし、最終的に、ロドリゴ神父自らも、自分が踏み絵を踏まなければならない立場に置かれ、激しい拷問を受けているキリスト者を救うために、苦難と葛藤の中で、踏み絵を踏むのです。

このロドリゴの行為から、「この行為は善か悪か。」ということが度々議論される作品ですが、私には彼の行為が神様の前にどうであったかの答えはありません。けれど、私がこの作品で共感するのは、踏みつけられたキリストの姿から浮かび上がってくる、キリストの大きな犠牲と深い愛です。

「私はあなたを知らない」というペテロの裏切りとも通ずる踏み絵を踏むということからも、私はイエス様の十字架を考えました。『沈黙』で描かれるキリストも、聖書の中のキリストも、踏まれる立場となられました。「道」というヘブル語の語源は、「踏みつける」という意味があるそうです。キリストは、「私が道であり、真理であり、命なのです。」とおっしゃいました。そのイエス様を通して永遠の命に導かれる、これはキリスト教の究極の教えです。

このことからも、本当に私たちの心に平安が与えられる時というのは、私たちが完璧になった時でも、強くされた時ではなく、私たちの弱さや欠けを代わりに引き受けて下さるお方と出会ったとき。私たちの身代わりとなって命をささげてくださった尊いお方の存在を知ったときなのではないかと思うのです。

ペテロは何度も失敗を繰り返しながらも、神様のあわれみの中で最初の信仰告白に立ちかえり、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」というキリストの言葉に自分の人生を預けていきました。記録では、ペテロはキリスト教徒迫害の厳しい時代の中、最後は殉教の死を遂げることになりますが、キリストと同じ姿で死ぬのは申し訳ないと、十字架に逆さ吊りとなって殉教したと言われています。

最後にみなさんに、ペテロや弟子たちに贈られたキリストの言葉を贈りたいと思います。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
ヨハネの福音書15章16a節

「選んだ」と聞くと、選ばれなかった者もいるのではないか、と思うかもしれません。
けれど、イエス様は目の前にいる弟子たちに、「あなたを選ぶ」、「あなたは選ばない」、という区別はせずに「私があなたを選んだ」と自分から一人一人に歩み寄っていかれたのです。そして、今、みなさんにもイエス様は同じように呼びかけているのではないでしょうか。

この一年、朝の礼拝や終礼でイエス様のことばを聞いてこられたみなさんが、この玉川聖学院で過ごす残りの日々も、またこれからの人生においても、神様に愛されていること、神様の尊い犠牲の上にみなさんの人生が祝福されるということを知ってほしいと思います。そして、遣わされる場所で、神の愛と平和の使者としての麗しい光を放ってほしいと心から願っています。

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