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  • 2019.08.12

今週のメッセージ

「一隅の平和」

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

エペソ人への手紙2章14節~16節

平和を憶える夏。私たちは平和を作り出すためにどのようなことを行っているでしょうか。6月の平和週間では毎朝の礼拝で世界平和のために祈り、平和についてのメッセージを聴き、国境なき医師団で活動されている吉野美幸先生をお招きして平和講演の時を持ちました。また、生徒会活動では毎月のチャイルド支援の募金活動や災害時の緊急募金活動も行っています。被災地や遠い国の貧しい人達のことを憶えて祈り、具体的に募金活動をすることは尊いことです。
けれど、ふとしたときに、こうした活動をする自分の行いと、自分の心とが乖離しているような虚しさを感じてしまうことがあります。遠いアフリカや東南アジアの人のことを思うことができても、すぐ隣の人には優しい言葉の一つもかけることができない自分がいます。日常の中で具体的な関係性を保って生きていくのは遠い国の人々ではなく、家族であったり、教室の中のクラスメイトであったりするからです。そこで生じるちょっとした行き違いからおこる不愉快な思いや腹立たしさを、私たちは自分の力はどうしても解決できずに、相手を憎む気持ちや許せない思いを抱えて生きているものです。自分の心の片隅に抱えている誰にも言えないものを自分自身の力ではどうすることもできないのが、弱い人間の姿です。
この心の片隅を、森有正は一隅(いちぐう)という言葉で著書に記しました。
『人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっています。
醜い考えがありますし、恥がありますし、他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。そういう場所で、アブラハムは神様にお目にかかっているし、そこでしか、人間には神様にお目にかかる場所はないのではないでしょうか。人は誰はばからず語ることのできる観念や思想や道徳といったところでは、真に神に会うことができないのです。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人は神に会うことはできないのです』

一隅とは隅(すみ)、片隅、隅っこのことです。
真の平和が作り出される場所というのは、この心の一隅ではないかと思うのです。心の一隅に隠し持っていた、自分の力ではどうすることもできなかった罪が、キリストの十字架によって許されたことを知ったとき、人は誰にも言えない醜い思いを捨てられる真の解決を示されていくでしょう。そのことによって、どうしても許せなかった隣の人を許し、どうしても言うことができなかった「ごめんなさい」を言うことができる。本当の平和は、悔い改めのささやかな歩みから、世界へと広がっていくのです。

【祈り】
神様、あなたがキリストの十字架を通して、わたしたちの心の中に平和への一隅を造ってくださったことを感謝します。心の一隅に点された平和の灯を絶やすことなく、広げていくことができますように、わたしたちを送り出してください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(中等部教頭 笠井洋子)

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