いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2022.08.16

社会の絆をどこに求めるか

8月は過去の歴史を振り返り、平和の意味について考える季節でもあるのに、ウクライナやミャンマーでは今も戦闘や弾圧が続いているのに、私たちの国では戦争の惨禍を考えさせる情報が極端に減ってしまっている様に思えてならない。平和という言葉が「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の名称を示すだけで、「平和をつくるもの」とは誰であるかを思い巡らす機会が失われてしまっていることを遺憾に思う。

「世界平和」「家庭の復権」「地域ボランティア」など耳障りの良い言葉に包まれたカルト団体の存在は、もう数十年も前のことだが、かつて関わりを持った同世代の真面目な学生が大学から忽然と消えてしまった後に感じた悔恨の情と恐ろしさを思い出させる。社会の絆が崩壊に向かう中、真実を求めていた学生たちが「オウム真理教」や「原理研究会」(統一教会)に引き込まれていった時代だった。高度経済成長を達成し、経済的豊かさを手に入れた社会が失ってしまった、人と人との信頼関係の回復や、孤独と心の空洞を埋める何かを求めたときに、魔の手が入り込んできた時代のことだった。その後、巧みに政治の世界を取り込んだカルト集団が、密かに人々の精神を支配しようとしている恐ろしさは、あの時に感じていた思いに通じる感覚だ。

あれから数十年の間に、私たちの社会が置き去りにしたものは、人間そのものを大事にする心だったのではないだろうか。個々の人間の尊厳を徹底的に守ることと、他者との相互依存の中を生きているという感覚を同時に併せ持つ人格を育てることを忘れてきたのではないか。競争に勝ち残ることと結果への自己責任を強調することで、人間の特性である相互に思いやる中で共存していくあり方が失われてきたのではないか。その隙間に排他的な偽の絆を刷り込もうとする「宗教」が、勢力を伸ばしてきたことを懸念している。

東大の先端研の熊谷晋一郎氏が言っている「依存先を増やすことが自立である」という言葉を噛み締める。安易な同調でもなく孤立でもない。どれだけ信頼できる他者と相互依存の関係性を持てるかが問われている様に思う。
孤立化している社会の中でどうしたら人と繋がることができるのか。長年ホームレス支援を実践してきた奥田知志氏は、社会的孤立には、自分からの疎外、生きる意欲の低下、社会のサポートにつながらないという三つの危機があると記している(奥田知志編「伴走型支援」有斐閣)が、つながりの本質は双方向性にあることを前提に、伴走型の支援のあり方を提言している。相互に依存し合う社会が目指されるべきなのだろう。

言葉が実態を伴わない単なる感情表現の手段に変わってしまいつつある現代において、人格から人格へ伝わる言葉を紡ぎ出すにはどうしたら良いのであろう。教育の目指す目標が、自分を知り、他者を理解し、共に生きる世界を構築するための知恵や心を育てることだとしたら、相互に依存し合う社会を建設すること、子どもたち自身が真の社会的絆を知識と体験を通して獲得していくことを支援すること、その場を提供することが重要だと思う。コロナ禍が収まらない中、そんなことを思い巡らして夏を過ごしている。

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