いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2022.01.11

記録することの意味はどこにあるのか

 今年も新たなスタートが切られたが、新年早々の急速なコロナの感染拡大に心は曇っていく。都の施設は再び休園となり美術展なども開催延期となった。ようやく動き出した活動への思いもまた頓挫させられるのではないかと思うと気が滅入ってくる。せめてこれから始まる入試そして卒業のシーズンが、安全にそして滞りなく行えるようにと心から祈らされる。

 コロナ禍の学校教育の中で、既に文部科学省が以前から提唱していた令和時代の学校教育のスタンダードとしての「GIGAスクール構想」は一気に進んだ。公立学校では児童・生徒一人一台の端末と、高速大容量の通信ネットワーク環境の整備が早々に整い、すでに世田谷区の公立小中学校では、教室からの授業の同時配信が始まっている。オンライン授業を同時進行させることは、教職員にとって大きな負担になることは明らかだが、令和時代の教育が「全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現」であるならば、ICT環境に慣れ、それを駆使した教育を推進することは、これからの教職員にとっての必須の課題となるだろう。

 新年早々、生徒の学習履歴などの個人の教育データをデジタル化して一元化する仕組みを構築することが、政府(デジタル担当大臣)から発表された。唐突に見える発表だが、すでにこのことは「働き方改革」の一環として、教員の事務作業を軽減することがGIGAスクール構想などの中にも記されていた。確かに現場の教員(とりわけ公立学校では報告書の類の書類の多さ)は大きな負担となっている。だがこの生徒の個人記録データの管理には、大きな問題が隠されているように思えてならない。

そもそも教育とは、成長過程の子どもたちに寄り添うことから始まっていく。失敗したり混乱したりする経験を通して、それぞれに人格を形成していく子どもたちの成長発達を支援していくことが、現場の教員の役割だと言えよう。データの記録は個別の成長を促すための補助資料にすぎない。ところがデータの管理の一元化という方向性は、過去を記録して評価する対象とみなされてしまう傾向があることは否めない。事実、高校や大学の推薦入試のために、行動を規制して優等生であることを演じたり、生徒会活動やボランティア活動に参加することで内申書の評点をあげる行為が、全国各地の学校に起こっている事が指摘されている。

公立小中学校の教員だった蒔田晋治さんの「教室はまちがうところだ」という詩を思い出す。

「教室はまちがうところだ みんなが どしどし手をあげて まちがった意見を言おうじゃないか まちがった答えを言おうじゃないか まちがうことをおそれちゃいけない まちがうことを わらっちゃいけない まちがった意見も まちがった答えも ああじゃないか こうじゃないかと みんなで出しあい、言い合うなかで ほんとうのものを見つけていくのだ そうしてみんなで伸びていくのだ・・・・」

 こんな自由な空気こそ、教育現場が作り出す空気なのではないか。管理され記録され、それによって評価される教育では、創造的な未来を作ることができない。「主体的・対話的な深い学び」とは、間違えることを気にせずに発言し、人の話をよく聞き、多様なものの中から自ら答えを見つけ出すことの中でしか育たない。それを妨げるシステムづくりは教育を殺してしまうのではないかと懸念する。

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