いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2019.10.15

記憶に残るもの、歴史に残すもの

「今回の台風は狩野川台風並みの大きさです。」テレビから流れてくる音声は、しきり今から60年前の台風の爪痕のことを報じていた。実は幼い頃の記憶として、狩野川台風で近くの多摩川の支流が氾濫して、床下浸水した記憶が脳裏に残っている私は、いつもの情報以上に、不安感を強く持っていた。ハザードマップによれば我が家は最悪の場合、水没することが知らされているからでもあった。

10月12日台風は予想通りの進路で近づいていた。テレビからは「過去経験したことのない大雨が襲う」ことが告げられていた。今まであまりこのような情報には反応しなかった自分が、今回妙に心が騒いだのは、「自分にとっての狩野川台風の記憶」が心の奥底に残っていたからだろう。この日、早々と大事な荷物を二階に上げて、親戚の家に避難した。午後から夜まで激しい雨が降り、多摩川の水位は洪水の寸前のところまで上がり、居住地域をはじめ避難勧告が広範囲にわたって出された。結果として多摩川のさらに下流では浸水する事態となったが、幸いにも我が家の地域は守られて、翌朝帰宅することができた。

記憶の中に残っていることに人は想像力を働かせやすいのだと思わされた。かつての日本の戦争の時代の記憶が心に残っている人々が語る平和への切実な思いは、二度と惨禍を繰り返してはならないという過去への反省と決意の表明であり、戦後民主主義はその実現のための社会制度であったはずだ。その記憶が社会全体から薄れてきていないかと心配している。人々の記憶とともに、歴史を正しく記録して伝えていくことの必要性を強く感じている。

先日の臨時国会の冒頭で政府の施政方針演説が行われた。第一次大戦後のパリ講和会議での日本代表の演説を取り上げ、百年前から日本は世界に向けて人権や平和の実現に向けてのアピールを行ってきたと主張されていた。その後のアジアへの侵略や無謀な戦争の歴史は意識の中で「透明化」してしまっているように思う。最近、長い間に積み重ねられて検証されてきた歴史的事実を否定するような言論が、一方的に喧伝されている。そしてそのような主張が出されることで、全てが相対化され、真実が闇の中に埋没してしまうような風潮が広がっていることを非常に危惧している。事実に立脚することのみに基づいて構築されてきた学問の正当性が、踏みにじられているように思えてならない。戦争の記憶が薄れていく現代にあって、史実が正しく記録されていくことは非常に大きな今日的な意味を持っているように思う。

昨年の読書会で、精神科医の中井久夫氏の書いた「いじめのある世界に生きる君たちへ」(中央公論新社)を読んだ。その中の記述に「いじめが日常化すると、目の前に起きている事実を見ていながら、それが透明化されていく」とあった。ひどい現実に抗うことが出来ない無力感を感じると、避けたくなる現実に対して集団としてそれが見えなくなってしまう状態に陥るという指摘であった。見たくないものを見ないうちに本当に見えなくなってしまうのだ。人間の心は恐ろしい。だからこそ、私たちは歴史的事実にしっかりと目を止めることが必要なのではないか。教育現場では事実に基づいて、真実を養う洞察力を提供し続ける必要があるのではないかと思わされている。

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