いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2019.02.21

終わりに向かって

2019年度も卒業式、終業式の時期が近づいてきた。今年度に残された日数も指折り数えられるようになった。終わりが近づくと、学校という場所は不思議な空気に包まれていく。とりわけ「体験」の密度の高かった集団での残りの日が少なくなると、「まとまりのある終わり方」への意識も高まっていく。人間には終わりを意識できる(時間という軸を意識できる)能力が備わっているということは幸いなことだろう。
「初めがあり、終わりがある」ということは、時間に対する意識や責任を生み出す。限りある命を生きていることは、人間を謙虚にすると共に、生きる意味を考えさせる。人間学の授業や保護者の講座でもちょうど学んでいるように、「有限の生への自覚」が人間の生き方を密度の濃いものへと導く。(今年度も保護者のための人間学講座には多くに方々の参加があり、有意義な時間を共有できたことを感謝したい。一人一人が熱心に学ぶ姿に共感し、子供たちと共に成長することの麗しさを実感した。)中世の修道院の標語「メメント・モリ(汝ら、命に限りがあることを自覚せよ)」は、終わりを意識するところから始まっていく。真実に「死を考えることの意味」は、このような時代だからこそ大きいといえる。少なくとも命の危機に追い込まれる戦争への傾斜には、何が何でも反対しなければなるまい。
最近、著名なアスリートや芸能人たちの行った「癌の告知」は、彼らの癒しを祈る心を大勢の人たちに与えると共に、私たちに生と死について考えさせる契機を与えてくれる。日常的には考えていない命について考えることは、今日をどう生きるかを選択することにつながっていることに気づかされていく。そして多くの場合、個人的にこの命の有限性に気づく経験を経て、再び生きる力を回復した人たちの多くは、それまでとは全く異なる世界を生きていくことができるような気がする。大病を経験した人たちの持つ人間力や感性に励まされたことも多い。
学校生活も有限の時間の中で営まれている。中学高校は、3年間、6年間という時間軸の中に存在している。毎年卒業が近づいてくると、この限りある時間の持つ意味を考えさせられる。卒業生たちは、この時間をどのように用いかを数々の思い出とともに振り返り、自分の「物語」を育んできたこの時間を再認識していく。こういう営みの中に、人間としての成長の契機があるのだろう。毎日忙殺される日々の中で、立ち止まって振り返り、区切りをつけて、また新しく始めていく。このような営みを支援していくことが、学校教育の大切な役割なのだろう。良き卒業式になるように祈りたい。

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