心を磨く

  • 2020.04.19

今日の聖書のことばと祈り

 外は明るいよい天気。しかし、緊急事態宣言が続いていて家の中にいる私たち。このようなギャップが現実であるとき、私たちは聖書のことばが語ることと、私たちの感じ方の間にあるギャップについても、いつもと違う思いを持てるかもしれません。
 この日曜日も、個人的な礼拝を神様にささげる心と共に、以下の文章を読んでいただけるとうれしいです。
 これから10分位、心を落ち着かせて集中できるような場所で、始めてみましょう。

【黙想】
短い時間、目をつぶって、心を静めます。

【賛美】
以下の聖書のことばを、ゆっくり意味を考えながら読むことを通して、神を賛美しましょう。

旧約聖書 イザヤ書 40章 28~31節
あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、
精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、
若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

【祈り】
天の父よ。今日もこうして、あなたの前に礼拝をささげられる恵みを感謝します。
私たち罪人の心の狭さやわがままをおゆるし下さい。
今この世界に広がっている病から、私たちをお守りくださり、あなたに信頼することで平安を得られるように助けてください。
与えられている状況や情報の中で、私たちが共に生きるために正しいことを行い、助け合っていくことを学ぶことができるように導いてください。
この小さな礼拝を祝福してくださり、私の心をあなたのみことばによって養ってください。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

【聖書】
新約聖書 ヨハネの福音書 20章24~29節
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

【メッセージ】
 「なんで見えなくてあてにならないものを信じようと思ったんですか?」 ときどき率直な生徒が私に聞いてくれます。そんな彼女たちには、今日のこの場面のトマスの態度に共感できるものがあるだろうと思います。
 イエスが死んで三日目の日曜日の夕方、弟子たちのいるところに復活したイエスが現れたことで、早朝にマグダラのマリヤがイエスに会ったと話していたことが嘘ではなかったと、弟子たちは知りました。しかしその時に、十二人の弟子のひとりのトマスという人物は、そこに居合わせませんでした。不在だった理由はわかりません。彼が戻ってきたときに、仲間たちは口々にイエスが現れたときの様子を喜びのニュースとして説明しますが、彼にはまったく信じることができませんでした。
 以前彼は、イエスが、自分の命を狙うユダヤ人たちがいるところに行こうとしたとき、「先生が死ぬときは私たちも一緒だ!」と仲間を鼓舞したことがありました。彼はどうやら、悲劇的な現実にも立ち向かおうとする実直さを持っていて、イエスとの運命共同体を決意していたようです。一度はイエスと共に死ぬことを覚悟したのなら、イエスの処刑の場から逃げ隠れした自分を彼はゆるせなかったのではないかと思います。その悔恨を一生引きずっていこうとしていたかもしれません。悲壮な思いを持っていた彼にとって、仲間たちがうれしそうにする復活話は、あまりにも現実離れしており、あまりにも能天気に聞こえたのでしょう。「そんな妄想をみんなで励まし合ってどうするのだ。先生は死んだんだ。ちゃんとこの事実に私たちは向き合わなければならないんだ!先生がよみがえったっていうのなら、見せてみろ!触らせてみろよ!」…こんな感じだったのではないかと思います。。
 その後1週間、仲間たちが復活したイエスのことを話しながら、希望を取り戻していく様子に、トマスはついていけなかっただろうと思います。「もしかしたら」と考えたこともあったかもしれませんが、仲間の言うことと自分の実際的な感覚にはあまりにもギャップがあります。「まさか。ありえない。」何度考えても、結論は同じだったことでしょう。そんな中で、次の日曜日、イエスが再び彼らの前に姿を現します。前と同じように突然部屋の中に現れ、「平安があるように」と言います。そしてイエスはまっすぐにトマスを見つめて、彼が1週間前に使ったものと同じ言い回しで語りかけるのです。
「指を入れてみなさい。よく見なさい。触ってみなさい。信じない者ではなく信じる者になりなさい。」
 トマスには返す言葉がありませんでした。「信じがたいことなのに、でも現実に目の前に先生が立っている。この方は私が思っていた以上の方だったのだ。」そんな思いの中からようやく言えたのは「私の主。私の神」とイエスを神として礼拝する言葉でした。
 
 トマスは、仲間たちが浮世離れした願望からありもしないことを信じようとしているような姿が許せませんでした。自分たちが信じたいことを信じて、傷をなめ合うなんて、あまりに情けない現実逃避です。「はっきり見なければ信じない」という彼の姿勢は、事実に誠実であろうとするあなたに、似ているのではないでしょうか。そしてトマスは自分の目で事実に向き合ったときには、前言を撤回します。そんな彼の率直さも、私たちが学ぶべきことではないかと思うのです。
 聖書のイエスの復活について記述には、当時の代表的な事実のあらすじが淡々と述べられています。福音書がまず伝えたいことは、復活の意味やそれにまつわる洞察ではなく、そのことがあった、という事実なのです。なぜなら、イエスの復活が事実であるのならば、それ以前のイエスの言葉や行為が新しい意味を持つようになるからです。彼が普通の人間として死んで終わったのでなければ、その死には、そのことばには、普通の人間のそれではない意味があると考えてよいでしょう。キリスト信仰は、イエスを信じた者が、その信仰深さによって復活さえも信じるようになった、という話ではありません。順番が逆なのです。イエスの復活が否定できない事実だったから、多くの人々がイエスを救い主と認めざるを得なかった、という出来事だったのです。
 トマスは見て信じました。しかしイエスは、現代の私たちに向いて語ります。「見ずに信じる者は幸いです。」 これは「見ないで信じろ」と突き放しているのではなく、「見ないままでも信じることができる者たちがいる。時代を越えて、そういう者たちがたくさん現れる」と私たちの中の信仰の可能性を語っているのではないかと思います。信仰とは、たとえ見えなくても信じ続ける心です。しかし、私たちがイエスを見ずに信じることができるのは、彼の復活を見た多くの証人たちがその事実をいのちを賭けて証言していた過去があるからです。もしあなたが、聖書が記録しているこの事実を確かめようとしてくれるなら、あるいはトマスのように、半端なウソなら暴いてやろうと信仰者たちを追及し始めてくれるなら、その時点であなたはキリスト信仰に大きく近づいているのではないかと思います。

【祈り】
天にいらっしゃる父なる神様。
トマス以上に疑い深い私です。イエス様が本当に復活した救い主であるならば、私の心も納得できるような、理解と導きを与えてください。そして、あなたが今も生きておられるというのなら、今日の私のうちに、あなたの励ましと平安を与えてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン。

【黙祷】短く、自分の言葉で心の中で祈りをささげて終わりましょう

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