いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2018.11.30

地域の信頼を得ることによって

この秋、上野の森は大規模な美術展のラッシュで賑わっている。ルーベンス、フェルメール、そしてムンク、時代も作風も異なる画家たちの生涯の回顧展のような内容の充実した絵画展に触れることができるのは幸いだ。同時にいくつも見るのは無理なので、何回か足を運んだが、やはり東京に住む者の特権であろう、贅沢な楽しみでもある。一歩会場の中に入るとそこに展開される独自の世界に魅了されていく。ムンクの「叫び」には数十年ぶりに再会したが、かつて東京近代美術館で初めて見たときの衝撃的な印象とは、作品から受けるものがずいぶん違ったように感じた。年齢とともに見えてくるものも異なるのだろう。いやまだ自分には見えていないものも、届いていないメッセージが多いに違いない。
今年度から学校での立場が変わったことに伴い、色々と動けるようになったこともあり、美術展のみならず様々な研修会に出かけていく機会も増えた。また、今までは校務多忙によりお断りしていた教員研修会での講演も、教育現場を助けることにつながるのであるなら可能な限り引き受け、直接先生たちと出会う機会を提供している。とりわけずっと東京の学校にいたので、各地方のキリスト教学校を訪問することは楽しみだ。そこで出会う人たちとの交流は、大変魅力的で新鮮な発見の連続のように思っている。
今週、愛媛県松山のキリスト教学校を訪問した。創立130年を超える明治以来のミッションスクールだった。強く感じたのは、地域の人たちに信頼されるということは、何にも代えがたい財産だということだ。秋のはじめに金沢のミッションに行った時にも同じように感じたが、長い歴史の中で積み重ねられた実績により、地域の人々は学校を承認し、評価し、信頼して協力してくれるようになっていく。歴史の重みというものは本当に存在していることを思った。異文化であるキリスト教が人々に受容されるには、それなりの時間が必要なのだろう。それを達成している伝統に根ざした学校の持つ奥行きのようなものを、各校の中に垣間見ることができた。
翻って東京には地域性があるのだろうか。情報は多く、たくさんの機会が提供され、刺激的なイベントや画期的なトピックには事欠かない。時代の先端を行く考え方やグローバルな視点が圧倒的な速さと大きさで私たちに迫ってくる。それに対応しようと次々に新しい試みが行われ、その情報も入手されていく。その速度に振り落とされないよう、情報に遅れないようにと気を遣っている。しかし本当に教育が人から人に伝わっていく業であるとしたら、地域に密着できずに何ができると言えるのだろう。地元の信頼を得ずに教育の実りを示せるのか。
そういえば画家たちの作品にはどの作品も強い個性とともに、彼らが背負っている文化の重さが感じられた。個別性と普遍性が画面から伝わってくるからこそ、時代や文化を超えて共感と理解が得られるのだろう。果たして教育という業は、時代拘束性を超えられないのだろうか。少なくとも2000年にわたり受け継がれてきたキリスト教教育にはそれが可能なのだと思う。時代に通じる言葉に翻訳し、そこに生きる人たちの営みによって、説得力を持ちうるのではないか。地域に根ざしたキリスト教学校の姿を見て、今その可能性を強く感じている。

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