いつまでも残るもの
~この時代の教育を考える~

  • 2018.07.09

宗教が提供するもの

先週末から日本列島は大荒れの天候が続いている。近年各地で起きている突然の集中豪雨は、何か日本列島全体が異常な世界に浸食されているような不吉な予感すら感じてしまう。使徒パウロはローマ人への手紙の中で、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」と記したが、産業化の進展とともに人間の欲望が肥大化し、地球の呻き苦しみを生み出してしまったのではないかと懸念している。
同じ週末に「オウム真理教事件」の首謀者達の死刑が一挙に実施されたことが報じられた。あれから23年が経過したことを考えさせられた。日本中を震撼させたあの事件は一体何だったのだろうか。あの時、前途有望な若者達が非人間的なカルト宗教に陥っていった現実を前に、ある識者たちは、真理を追求しようとする心を持った純粋な彼らを、あのような道に走らせてしまった社会の問題性について語っていた。あれからずいぶん長い時間が経過したが、果たしてあの事件の真相は明らかにされ、またその教訓は生かされているのだろうか。
あの事件は様々な社会的影響を与えた。宗教の持つ閉鎖的な一面がクローズアップされ、その恐ろしさが社会に浸透していった。愛や平和の追求が根源にあるはずの宗教の偏狭な側面が語られ、魂の問題を語ることが難しい社会になっていったように思われる。本来、有限な人間は人生の縦軸を持つことで辛うじて右往左往することなく信念を貫くことができるのだが、絶対他者の存在を意識できなければ全てが相対化され、自らの基準が失われていく。魂が養われることなしに、真理への洞察力が磨かれていくことは難しいのではないだろうか。宗教の出番はそこにあったはずではないか。その宗教への信頼感が失わせてしまった事件だった。その後、魂の喪失がもたらす頽廃が私たちの国にはびこっているのではないだろうか。
もう一つ気になるのは、あの事件以来、物事を単純化して論ずる風潮が強まったのではないかということだ。説明のつかない事件をわかりやすくするために黒白をはっきりさせ、極悪非道の凶暴な宗教集団というレッテルを貼り、世間の常識から逸脱した人々、「問題の人間」の仕業とすることで、社会が納得しようとしてきたのではないか。彼らが根源的な部分で持っていた問いは、「人間の問題」であり、ある成り行きの中で一部の「武装の実行」という主張が暴走して止められなくなったのが真相ではなかったか(林郁夫「オウムと私」文春文庫)。仏教の教えに基づき、「生きる苦しみから解脱して涅槃に入るためにはすべての生き物の救済が必要である」と信じて、修行に励んでいた彼らが逸脱していく過程は、十分に検証し原因を解明しなければならないのではないか。近年様々な事件の報道が、この単純化の延長線上に報じられることが非常に気になる。自分を安全地帯に置いたまま、誰かを悪者にし、攻撃し、貶めているように思えてならない。生きるということはもっと複雑なことなのだと思うが、社会全体が思考停止状態に陥っているのではないか。
死刑の是非はともかくとして、これで事件を終わらせてはならない。宗教=危ないとの構図を作り続けることは、魂の問題を棚上げにしたまま、生について考えることにつながる。私たちはもう一度立ち止まって、私たち自身がどこに向かおうとしているのかを吟味してみる必要があるのではないか。真の宗教は人を癒し、回復させ、生かし、絶望の中にあっても希望を与え続ける積極的な人との関わり(それを愛と呼ぶ)をもたらすものではないか。
「父なる神の前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブの手紙1:27)

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