心を磨く

  • 2019.01.07

愛するひとり子を差し出す愛

かつて、自分の子どもを殺すようにと神から命じられた父親がいました。彼の名はアブラハム。その子イサクは、待ち続けた末に産まれた、妻サラとの間の一人息子でした。神はアブラハムに対して、イサクの子孫が増え広がることを何度も約束してきました。しかし、神はあるとき「その子を焼き尽くして、いけにえとしてわたしにささげなさい」と命じるのです。何とアブラハムは翌日すぐに命令に従います。息子を連れて、3日の道のりを歩き、息子に薪を背負わせ、山を登ります。「お父さん、薪はあるけどいけにえにする羊はどこ?」と問う息子に彼は答えます。「羊は神が用意してくださる。」神に指示された場所につくと、彼は息子を縛り、薪の上に置いて、ナイフを振り上げます。まさにその時「アブラハム、その子を殺してはならない」という声が聞こえ、間一髪のところでイサクは救われます。アブラハムとイサクは、茂みの中に見つけた羊を、代わりのいけにえとして献げ、神の声を聞きます。「あなたは自分のひとり子を惜しまずに、わたしに従ったから、あなたを大いに祝福しよう。」(創世記22章参照。)
結局イサクは殺されなかったものの、この出来事は聖書の中でも非常にショッキングな事件です。なぜ神はこんな恐ろしいことを命じたのでしょうか。その命令に従ってしまうアブラハムはどういう神経をしていたのでしょうか。大切なひとり息子をいけにえにする父親がどこにいるでしょう。狂信的、気が狂っているとしか思えません。
実はこの出来事があったモリヤの山は、数千年後イエスが十字架刑に処せられた場所と同じだと言われています。息子をいけにえにする父アブラハムの姿は、ひとり子イエス・キリストを、罪人たちの身代わりとして死に至らせる父なる神と重なります。気が狂っているのは、聖書の神なのです。なぜ、たった一人の自分の子を、罪人たちの代わりに死なせるのでしょうか。そこまで犠牲を払う価値が、罪人たち(私たち)にあるというのでしょうか。そこまでの私たちへの神の思いとはどれほどの愛なのでしょうか。
神はそのひとり子を、この世に送られました。クリスマスは御子イエスの誕生を祝うときです。そして、御子のいのちを犠牲にするほどの神の愛を、私たちが受け取るべき時なのです。

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